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小仏関跡(八王子市裏高尾町)

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写真: 小仏関跡(八王子市裏高尾町)

写真: 八王子城なう∠(T∧T)ビシ 写真: 長安寺(八王子市並木町)

小仏関跡(八王子市裏高尾町)

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――mixi記事コピペ――2013年08月23日 02:55
小仏関所(こぼとけせきしょ)――
戦国時代、北条氏照が小仏峠頂上(標高548m)に設置したという。富士見関所とも呼ばれた。この頃は交通の難所とされており(旧甲州道)、別途浅間尾根を通る道が存在したという(古甲州道)。
「小仏」は1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたことから命名されたとか。
※甲斐と武蔵を隔てる境界線は峠が並ぶ。北から、雁坂峠、柳沢峠、大菩薩峠、松姫峠、中略(相模国境経て)、和田峠、小仏峠、大垂水峠と連なる。

永禄12(1569)年、前年の駿河侵攻のち、相州攻勢。小田原北条家の武州滝山城攻略に際し、武田軍別働隊の小山田信茂が兵1000で小仏峠から侵攻。氏照家臣の手勢2000と廿里(とどり)砦で合戦、武田軍は圧勝し滝山城を包囲した。信玄率いる2万の本体は碓氷峠から西上野を南下、拝島に本陣を置いていた。
この頃は、小仏峠からの越境進軍は考察されていなかった。この時の攻城戦は熾烈を極めたという。落城こそしなかったが、加住丘陵を利用した滝山城は南からの攻撃に弱いことが明らかとなり、小仏峠を睨んだ強力な防衛拠点の構築を急いだ。急峻な深沢山に八王子城を築いて本拠を滝山城から移し、甲州道の直接監視にあたった。その頃に横山・八日市・滝山といった宿場町も滝山城下より八王子城下へ移ったという。
この廿里(とどり)合戦での小山田信茂の山路から、小仏峠も岐路として利用されるようになったとか。

天正8(1580)年、小仏峠から東側の駒木野の地に移される。そのために駒木野関所とも呼ばれる。

後北条氏の滅亡、徳川幕府の五街道整備などを経て、元和2(1616)年に現在地へ。八王子千人同心や関東十八代官の手代らが交代で務めた。関東の広い西部一帯を治めるために雇用したのが、旧武田・旧小田原北条の領民たち残党。旧来の半士半農身分で。
東海道の箱根、中山道の碓氷、甲州道の小仏は「関東の三関」と称される。
※入り鉄炮(鉄砲)と出女→江戸に入ってくる武器と出ていく婦女(江戸住まいの大名家の婦女)は特別警戒された。

昭和3(1928)年1月18日、明治維新後に関所は撤廃されたが、街道に接し、石垣も構造を残していたため、後世に残す遺跡として保存が決まった。

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