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新宿3丁目交差点(新宿3丁目)新宿追分道標

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写真: 新宿3丁目交差点(新宿3丁目)新宿追分道標

写真: 太宗寺(新宿2丁目)江戸六地蔵 写真: 新宿3丁目交差点(新宿3丁目)新宿追分標柱

mixiアルバム「新宿区新宿/内藤新宿1 ・追分・旅籠・岡場所・飯盛女」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047171751&owner_id=32815602
2012年01月11日 05:00

11.07.14、11.09.19.
●内藤新宿(ないとうしんじゅく)――
甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場で、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(現 青梅街道)の起点で、江戸時代に設置された宿場町のひとつ。地名から四谷新宿とも呼ばれる。現新宿区新宿1丁目から2丁目、3丁目の一帯。(アルバムは新宿区新宿1〜7丁目まで。)
東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)の千住宿をあわせ、江戸四宿。

元禄10(1697)年、浅草阿部川町(現 台東区元浅草)の名主 高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道日本橋〜高井戸宿間に新しい宿場開設を幕府へ出願。
翌11年6月、幕府は5600両の上納を条件に宿場開設を許可。日本橋から二里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に決まる。宿場予定地には信濃国高遠藩内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。
高松喜兵衛らは新たに5名の商人を加えて宿場の整備に乗り出し、この10名は“元〆拾人衆”“内藤新宿御伝馬町年寄”などと呼ばれた。彼らの資金で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれた。
元禄12(1699)年、内藤新宿開設。玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現 新宿三丁目交差点)までの東西約1kmで、西から上町・仲町(中町)・下町に分けられている。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった“内藤宿”に由来。内藤新宿への助郷は、開設当初どの村が請け負うのか明確でなかったが、後に角筈村など周辺24ヶ所と定められた。
なお、浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由は、この地を新たな繁華街、行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力。
宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めていく。開設当初はこの高松家が本陣を経営していたが、のちに本陣が存在しない時期もあるなど、火災による焼失や宿場の廃止・再開による混乱もあり、本陣や脇本陣に関しては一定していない。

※角筈(つのはず)村。現 西新宿(都庁ほか高層ビル群がある)および歌舞伎町一帯。明治以前は田園地帯、戦国の昔は森林地帯だった。
※室町以前は、現在の新宿、四谷には“何もなかった”。何も、ないんです。一切の記録、史料が。
※元禄15(1702)年2月、正徳6(1716)年正月は、火災で大きな被害を出している。

宿場内は次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所としても賑わっていった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。享保3(1718)年には52軒あったと記録が残っている。吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、これが宿場廃止となった原因のひとつとなった。
宿場開設より20年足らずだった。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となる。廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、宿場としての機能は失われた。町そのものは存続したが、賑わいは消え人口も減少していくことになる。
幕府が表向きに廃止の理由としたのは、「甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため不要」というものだった。しかし、この時期は将軍吉宗による享保の改革の最中で、同10月に「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止された。

↓コメントへ続く。



2012年01月11日 05:02
アルバムコメント続――
●内藤新宿――

享保8(1723)年7月、高松喜六など4名が道中奉行所に宿場の再開を願い出る。宿場廃止に伴う町人の窮乏や、高井戸宿・伝馬町の負担増を理由とし、再開の際には1100両を上納するとしたが、再開は認められず。
享保20(1735)年、幕府側である南町奉行所から日本橋伝馬町に対し、内藤新宿再開の検討をするように指示が出る。しかし実際に伝馬町が提出した再開願いは、元文2(1737)年、吉宗の御側御用取次であった加納久通により却下される。
寛保から明和年間にかけて、数度に渡り内藤新宿の西にあたる角筈村に宿場を新設する案が出されたが、すべて却下されている。これらの宿場再開・新設願いが却下され続けた理由は、廃止の際と同じく風紀上の問題が懸念されたためだ。

寶?(ほうれき)年間(1751〜1763)、品川宿・板橋宿・千住宿の財政は悪化の一途であった。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていた。
明和元(1764)年、幕府は宿場の窮乏に対し、「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更。品川宿は500、板橋宿・千住宿は150までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。
これにより各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅。
宿場を補佐する助郷村の増加でも対応したが、こちらは伝馬騒動を引き起こして失敗に終わっている。
それでも、宿場が再開されるまでには歳月を要し、最終的には高松喜六(5代目)の請願で許可が下りた。再開に際し、飯盛女は宿場全体で150、年貢とは別に毎年155両を上納、助郷村は33ヶ所などの条件が設定された。
10代家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、再開に至る背景とする説がある。
明和9(1772)年4月、かくして内藤新宿は再開。50数年ぶりで、「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。
文化5(1808)年、賑わいを取り戻した町には、旅籠屋が50、引手茶屋が80、軒を並べていた。江戸四宿の中では品川宿に次ぐ2番目の賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続く。
現在、“内藤新宿”という地名は残っていないが、新宿の名はこれに由来する。



2012年01月11日 05:03
※旅籠(はたご)――
旅籠という言葉はもともと、旅の時に馬の飼料を入れる籠のことを言った。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味となり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになったのだ。
江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって、武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。混雑時には相部屋が求められ、女性の旅客は難儀をしたそうな。
次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていく。
しかし明治時代になって鉄道網が発達し、旧街道が廃れてくると、徒歩や牛馬による交通が減少、旅籠も廃業に追い込まれ、駅前に移転するところが相次ぐようになった。現在 旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは指折り程度しかない。
旅籠の宿泊代は概ね一泊200〜300文(現在の貨幣価値で3000〜5000円)程度が一般的だった。


※岡場所(おかばしょ)――
江戸時代、江戸における女郎屋を集めた吉原などの公許の遊廓に対し、私娼屋が集まった歓楽街のこと。
“岡”は“傍目(おかめ)”などと同じく、“脇”“外”を表す言葉(例、傍目八目)。江戸では、日本橋からひとつ目の宿場町である、品川・内藤新宿・板橋・千住が有名で(江戸四宿)、本郷の根津などにもあった。大正時代になってから向島の玉の井にも作られた。
吉原は格式高く、玉代が高いほか、いろいろなしきたり等多数あったが、岡場所はさほど優れた娼婦がいないため、代金も安く気軽に遊べる場所として利用された。

菎蒻島(霊岸島)、あさり河岸、中洲、入船町、土橋、直介屋敷、新六軒、横堀、大橋、井ノ掘、六間掘、安宅、大徳院前、回向院前、三好町、金龍寺前、浅草門跡前、新寺町、広徳寺前、どぶ店、柳の下、万福寺前、馬道、智楽院前、新鳥越、鳥町、山下、大根畠、千駄木、新畑、白山、丸山、行願寺門前、赤城、市谷八幡前、愛敬稲荷前、高井戸、青山、氷川、高稲荷前、卅三間堂など55ヶ所が寛政の改革でとりつぶしになった。
深川仲町、新地、表櫓、裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃、網打場、常盤町、御旅所弁天、松井町、入江町、三笠町、吉田町、吉岡町、堂前、谷中、根津、音羽、市ヶ谷、鮫ヶ橋、赤坂、市兵衛町、藪下、三田。残存していた以上27ヶ所が、天保の改革にて四宿をのぞいて全てとりつぶされた。


※飯盛女(めしもりおんな、飯売女(めしうりおんな))――
17世紀江戸時代、宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いていた。それが奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼。
飯盛女の名は俗称で、1718年以降の幕府法令(触書)では食売女と表記される。その名の通り、給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指し、一概に売春婦のみを指すわけではない。幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したとも、給仕をする下女が宿駅間の競争の激化とともに売春を行うようになったとも言われる。
当時、無償の公役や競争激化により宿駅は財政難であり、客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府も、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限の無い拡大は未然に防いだ。1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけている。
また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無頼漢、無法者集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関する情報が集中しやすかったため、目明かしなども料理屋に出入りし、公権力とも関わりをもっていた。料理屋における飯盛女雇用は、公権力への協力の見返りに黙認されるケースであったと考えられている。

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